Jujiro Wada
Jujiro Wada

この写真は、重次郎が1896年頃日本に里帰りした折に撮られたものと思われる。

ユーコン・アーカイブ、ユーコンにおけるアジア系移民の歴史コレクション2006/146 #1

和田重次郎は1875年に愛媛県で誕生。1891年に貨物船の茶箱の中に忍び込み、サンフランシスコまで密航し、その後間もなく捕鯨船団の補助艦バラエナ号に乗り組んだ。

ハーシェル島のポリーン・コーヴ(入り江)で船団と共に冬を越した重次郎は、船長から英語や航海測量技術、原住民イヌヴィアルイット達から極地での自給自足の生活方法などを教わり、バラエナ号との契約が完了したあとも、極北の地に戻った。

マケンジー・デルタ、アラスカ、ユーコンを駆け巡って、探索し測量し、また新規事業を推進した重次郎は、犬ぞりを繰ってそれまで人跡未踏であった地を数百マイル以上も切り拓いた。

それは肉体的に極度に厳しい、孤独な生活だった。日本人であるがために全面的に受け入れられることはなかったが、彼の頑健さと善良な性格には誰もが一目を置いていた。

根強い反アジア人感情がはびこっていた時期でもあり、重次郎は1901年にアメリカ市民権を申請したが、にべも無く拒否された。

アジア人は一般社会の中で法律的にさえひどく差別されていたが、彼の並外れた運動神経と底知れないスタミナは、北国の厳しい環境に住む男たちの間でも認められ、高く評価されていた。

敬愛する母に会うために、重次郎は1800年代の末に日本に帰った。その後再び日本に帰ることはなかったが、母の訃報を受け取るまで、欠かさず郷里に便りと送金をし続けた。

彼は、1937年にサンディエゴで永眠した。

「テントだけが彼の住まいだった」

ウィニペッグ・イーブニング・ポスト、1923年3月22日

H.H. Norwood

1903年頃のこの写真に写っているもう一人の人物は、H.H.ノーウッドかも知れない。彼は捕鯨船団補助艦バラエナ号の船長で、重次郎に航海測量技術と英語の読み書きを教えた。

ユーコン・アーカイブ、ユーコンにおけるアジア系移民の歴史コレクション2006/146 #2

Himeko

重次郎には日米子(英語名ヘレン)という娘がいた。1900年頃サンフランシスコで生まれたと思われる。

ユーコン・アーカイブ、ユーコンにおけるアジア系移民の歴史コレクション2006/146 #4

Himeko

日米子が、フェアバンクスからの連絡以来消息を絶っていた父親の行方を捜している旨の記事が、1914年9月5日付けのドーソン・デーリー・ニュースに載せられている。

ドーソン・デーリー・ニュース、1914年9月5日

Claim

1908年3月1日、重次郎は、ハーシェル島近くのファース川の支流、ハイ・キャッシュ・クリークで砂金採取権を確保した。市民権のない和田は、ユーコンで砂金採取権を確保することはできたが、アラスカでは、拒否された。

ユーコン・アーカイブ、ユーコンにおけるアジア系移民の歴史コレクション371#188

Map

1903年初頭、重次郎は、アラスカのタナナ川近辺で金が発見された知らせを携えて、ユーコンのドーソンまで前人未踏の行程をただ一人犬ぞりで走行した。彼のもたらした情報は、タナナ・スタンピードを引き起こす誘因となった。

ユーコン・サン紙、1903年1月17日

Race

重次郎は、アラスカのノームで1907年6月1日に行われた60kmマラソンで優勝し、2800ドルの賞金を獲得した。

ユーコン・アーカイブ、ユーコンにおけるアジア系移民の歴史コレクション2006/146 #7

Jujiro Wada

似顔絵と一緒に新聞に掲載された記事は、重次郎について「彼の主要な資質は、真摯率直で正直なことだ」と評している。

ユーコン・サン紙、1903年1月17日

Jujiro Wada

重次郎は、自分がアラスカとユーコンを犬ぞりで駆け回った距離を、合計4万4千キロと推定している。

ユーコン・アーカイブ、チャールス・テナント・フォンド95/33 #7