挫折と進歩
Mary and Aya Yamasaki

メアリーとアヤ・ヤマサキ、1920年頃、キノにて

ユーコン・アーカイブ、ユーコンにおけるアジア系移民の歴史コレクション、2006/146 #11

1921年にはユーコンに居住するアジア系移民は20人に過ぎなかったが、1941年には40名に増加した。真珠湾攻撃後、第二次世界大戦中、カナダに住 む日系人たちは敵国人とみなされ、国防省に登録することが要求された。1942年、老若男女2万人以上の日系人(そのうち75%はカナダ国籍所有者)がカ ナダ国内の収容所に強制収容された。ユーコンでは、RCMP(カナダ連邦警察)がこの仕事に携わったが、ドーソン市で日系人が抑留されたと言う記録はな い。また、その他のユーコン市町村で日系人が抑留されたかどうかは不明である。

その後、注目すべき肯定的な変化も起こっている。中国からのカナダへの移住をほとんど不可能にした中国移民法が1947年に破棄され、同年、中国系カナダ人とインド系カナダ人に選挙権が与えられた。日系カナダ人は1948年に選挙権を与えられた。1967年施行の移民法では、どこの民族に属するかではなく、各々の持っている技術とカナダ文化に対する適応性とによって、カナダ市民としての将来性が評価され、移住の資格が審査されるようになった。

Frank Yokabada

フランク・ヨカバダ(?)、トレッドウェル・ユーコン会社、ルー・タイタスの旧事務所にて、1935年頃

ユーコン・アーカイブ、ユーコンにおけるアジア系移民の歴史コレクション、2006/146 #12

Mary Burian

メアリー・ブリアン(旧姓ヨシダ)、シャトー・メイヨ・ホテルの前にて。1958年頃、初春。メアリーは1931年、13才のときにユーコンに来た。

ユーコン・アーカイブ、ユーコンにおけるアジア系移民の歴史コレクション、2006/146 #13

Mary Burian ID

メアリー・ブリアンの息子ハーヴィーは、「メイヨに住んでいた日系人は常に身分証明書を持って歩かなければならなかった」と母が言っていたのを覚えている。

ユーコン・アーカイブ、ユーコンにおけるアジア系移民の歴史コレクション、2006/146 #17

Dawson Weekly News

ドーソン・ウィクリー・ニュース、1面、1942年1月16日付け

Jim Quong

アラスカ・ハイウェイ建設と改修にあたり、ジム・クウォンの橋梁建設に関する幅広い知識は大変貴重であった。

クウォン家の写真集より

Jim Robb

「カラーフル5%」(5%の有色人種)ジム・ロブ著、1984年発行、第一巻、第1号、6ページ

ユーコン・アーカイブ、大型パンフレット、1984-70

Harry Yamasaki

1926年、キノ、ガリーナホテル玄関口にて、ハリー・ヤマサキ

ユーコン・アーカイブ、ウィリアム・ヘアー・フォンド、82/418 #6761

メイヨ近辺
Jin Ah Poy

ジン・ア・ポイ、メイヨで床屋を経営していた、数少ない中国人の一人

ユーコン・アーカイブ、ユーコンにおけるアジア系移民の歴史コレクション、2006/146 #14

20世紀初頭、ダンカン、ミント、ハイェト・クリークに金が発見され、スチュワート川沿いにメイヨの町が設立された。1919年には、キノ・ヒルに銀鉱脈が発見され、その後20年近くもユーコン経済の要の役割を果たした。

この近辺には何組かの日本人家族が住んでいた。アジアからユーコンに来た第一世代の移住民たちは、カナダの他の地域と同じく、独身の男性がほとんどであったが、1920年には家族が多くなってきた。

George Nagano

ジョージ・ナガノ、息子のジョージ、お守りのベティー・キカと娘のジーン、日曜学校のピクニックにて、1937年、メイヨ

ユーコン・アーカイブ、ユーコンにおけるアジア系移民の歴史コレクション、2006/146 #15