
1898年6月20日、横浜市から金を発掘しにやって来た田中と名乗る者が、チルクート・トレイルを越えてユーコンに到着したことが、北西騎馬警官隊の記録に残されている。そして1901年の公式記録では、ユーコンで日本人84名、中国人7名、「ヒンドゥー」0名が数えられている。人口動態データ、特に20世紀初頭の記録では、アジア系の人々は明確な国名なしでひとまとめにされていたり、または「ヒンドゥー」などという誤解を招き易い名称を使って記されたりしている。
アジア系移民は社会的にも法律的にも差別されていた。それはユーコンだけでなく全国的にも同様である。1885年の中国人移民法では、中国人移住者に人頭税が課された。また1908年には日本とカナダ政府間で取り交わされた林-レミュー「紳士協定」によって、日本からの移民の数が大幅に制限された。アジア系移民たちは、女性や先住民と同様、長期間にわたり選挙権を与えられなかった。ユーコンに住むアジア系移民は、このような差別や不平等な状況のもとで、一般労働者、鉱山労働者、召使、川船の船員、企業家として、また北西騎馬警官隊の特別警官にまでなって活躍した。

ドーソン市、王立委員会、トンプソン博士のベランダにて。アジア系の召使が後ろに 立っている。1903年8月
ユーコン・アーカイブ、J.B. タイレル・フォンド82/15 #290

マサユキ・サカタは、1889年ごろ日本に生まれ、1907年4月15日に両親と共にドーソン市に到着した。彼はメイヨ、キノ、ドーソンでレストランを経営する企業家として知られるようになった。ドーソンでは学校の子供たちのためにランチ・プログラムも始めた。1930年代には、キノ・ヒルにあったトレッドウェル・ユーコン会社の銀鉱山で働き、後年、ドーソンでレックス・カフェ、キノでサワードー・カフェを経営した。1969年12月11日、ユーコン・オーダー・オブ・パイオニア(ユーコン開拓勲章受賞者)の一員として迎えられた。1974年4月22日ホワイトホースにて死去。

マサ・サカタ、1937年メイヨにて
ユーコン・アーカイブ、ユーコンにおけるアジア系移民の歴史コレクション2006/146 #9より