初期
Man in Chair

ユーコン・アーカイブ、E.J.ハマッチャー・フォンド78/28 #114

1898年6月20日、横浜市から金を発掘しにやって来た田中と名乗る者が、チルクート・トレイルを越えてユーコンに到着したことが、北西騎馬警官隊の記録に残されている。そして1901年の公式記録では、ユーコンで日本人84名、中国人7名、「ヒンドゥー」0名が数えられている。人口動態データ、特に20世紀初頭の記録では、アジア系の人々は明確な国名なしでひとまとめにされていたり、または「ヒンドゥー」などという誤解を招き易い名称を使って記されたりしている。

アジア系移民は社会的にも法律的にも差別されていた。それはユーコンだけでなく全国的にも同様である。1885年の中国人移民法では、中国人移住者に人頭税が課された。また1908年には日本とカナダ政府間で取り交わされた林-レミュー「紳士協定」によって、日本からの移民の数が大幅に制限された。アジア系移民たちは、女性や先住民と同様、長期間にわたり選挙権を与えられなかった。ユーコンに住むアジア系移民は、このような差別や不平等な状況のもとで、一般労働者、鉱山労働者、召使、川船の船員、企業家として、また北西騎馬警官隊の特別警官にまでなって活躍した。

The Royal Commission on Dr. Thompson’s veranda

ドーソン市、王立委員会、トンプソン博士のベランダにて。アジア系の召使が後ろに 立っている。1903年8月

ユーコン・アーカイブ、J.B. タイレル・フォンド82/15 #290

RCMP Letter

ユーコン・アーカイブ、1681 f.31

Yukon Population by Ethnic Group

1901年から1961年までの人種別ユーコン人口配分 — ユーコンでは、長年にわたり日本人移住者のほうが中国系移住者より多かった。とは言え、どちらのグループの人数もわずかであった。

ユーコン・アーカイブ、パンフレット 1961-0058

Staff of the Canadian Bank of Commerce

カナダ・バンク・オブ・コマースの従業員、日付不明、ドーソン市。

ユーコン・アーカイブ、マイロン・バー・フォンド90/24 #12

Semi-Weekly Star (Whitehorse)

1902年6月28日付け、セミーウィークリー・スター(ホワイトホース市)

McDonald’s section-gang

マクドナルド組員、ホワイトパスとユーコン・ルート、1905年頃、カークロスにて

ユーコン・アーカイブ、ジョン・スコット・フォンド89/31 #186

Child at a vegetable stand

ドーソンで収穫された野菜のそばに立つ少年、1906年8月28日

ユーコン・アーカイブ、J.B. タイレル・フォンド82/15 #404

Conrad Mines crew

コンラッド鉱区鉱員と料理人、1906年.

ユーコン・アーカイブ、J.B. タイレル・フォンド82/15 #488

Two women

マーガレット&ロルフ・ホウゲン・コレクション、2002/188 #526

マサ・サカタ
Massa Sakata

マサ・サカタ(中央)、アラン・ジョン「ハードロック」マクドナルド(左)、右側の人の名は不明、1955年キノにて

ユーコン・アーカイブ、ユーコンにおけるアジア系移民の歴史コレクション2006/146 #9より

マサユキ・サカタは、1889年ごろ日本に生まれ、1907年4月15日に両親と共にドーソン市に到着した。彼はメイヨ、キノ、ドーソンでレストランを経営する企業家として知られるようになった。ドーソンでは学校の子供たちのためにランチ・プログラムも始めた。1930年代には、キノ・ヒルにあったトレッドウェル・ユーコン会社の銀鉱山で働き、後年、ドーソンでレックス・カフェ、キノでサワードー・カフェを経営した。1969年12月11日、ユーコン・オーダー・オブ・パイオニア(ユーコン開拓勲章受賞者)の一員として迎えられた。1974年4月22日ホワイトホースにて死去。

Massa Sakata

マサ・サカタ、1937年メイヨにて

ユーコン・アーカイブ、ユーコンにおけるアジア系移民の歴史コレクション2006/146 #9より